入ってきたのは幸田だった。名前は茜。若そうに見えるが年齢不詳。品の良い霞流家の使用人で、以前に美鶴と母の詩織の世話を甲斐甲斐しく行ってくれた。
幸田さんの声、最近聞いたような気がしたのは気のせい? そうだよね。だってこの人は霞流のお屋敷で働いている人なんだもん。霞流の家を出てからは一度も会ってはいないワケだし。
そうだ、この人は霞流家の人だ。
美鶴は改めて辺りを見渡す。
ここは、霞流さんの家。
突然、目の前で薄色の髪が揺れる。それはまるで意志を持っているかのよう。揺れる髪の毛の向こうで、切れた細い瞳が笑った。口元が綻ぶ。
優しく、春風のような柔和な笑みの、その唇が急激に艶を帯びてくる。
「君の望む僕をあげる」
思わず瞳をギュっと閉じる。
「どうかなさいましたか?」
手に持った盆を傍の丸テーブルへ置く。軽食が乗せられているようだ。
「ご気分が優れませんか?」
「あ、いや」
正直、気分スッキリというわけではない。なんとなく、まだ夢でも見ているかのようで、身体全体がフワフワする。
夢――――
あれは、夢だったのだろうか? それともやはり現実?
現実と虚実、光と闇、男と女――― すべてのものがとても曖昧なところで踊っている。そんなような世界だった。
あれは?
中途半端に左手を口へ添えたまま黙り込んでしまった美鶴に、幸田はしばらくの後に声を掛けた。
「お食事はされますか?」
「あ、えっと、すみません、今は」
食べようと思えば食べる事はできるのかもしれないが、今すぐに食べろと言われても自信がない。それに今は、少し考えたい。自分の見たものが、果たして現実だったのか?
考えて結論など出るのだろうか?
再び押し黙ってしまった美鶴に、幸田は飽くまで淡々と、だがどことなく気遣いも感じさせながら再び声をかける。
「あの、もしよろしければ」
そう前置きをし
「智論様を呼んでまいりましょうか?」
「え? 智論、様?」
幸田の言葉にしばし絶句し、頭を回転させる。
智論―――
目の前で、木綿のハンカチが揺れる。
「泣きたい時は、泣いた方がいいよ」
初めて会ったのは、駅舎の入り口だった。二度目は京都で。
霞流慎二の許婚だと聞かされた。
「あの、大迫様?」
「あ、あの、どうして智論さんを?」
京都の記憶がまだぼんやりと残る頭で、なんとか答える。
そうだ、なぜ自分はあの人と会わなければならないのだろう?
困惑する美鶴に、幸田は少し頭をさげる。
「智論様が、ぜひお会いしたいと。昨夜、大迫様がこちらに来られたと聞き、急ぎ智論様もこちらに来られたのでございます」
「昨夜?」
美鶴が顔をあげる。いつの間にか俯いていた。
「私、昨日来たんですか?」
美鶴の言葉に、幸田は一瞬顔を曇らせる。
「はい」
まずそう答え
「慎二様に抱えられて」
目の前で、濡れた艶やかな唇が笑った。
「霞流さんに」
声が震える。
「霞流さんが、私をここへ連れてきたんですか?」
「はい」
「か、霞流さんは、今どこに」
幸田の視線が泳ぐ。答えあぐねる彼女を急かそうと口を開いた時、凛と澄んだ声が響いた。
「慎二には、会わない方がいいわ」
視線の先、部屋の入り口で女性がこちらを見ている。
黒髪を後ろで縛り、持ち上げてバレッタで留めている。初めて会った時もそうだった。
「智論さん」
美鶴の言葉を受けて、智論はゆっくりと室内へ入ってくる。そうして、美鶴まであと数歩というところで止まった。
「こうならなければいいと、思ってはいたのだけれど」
言いながら目で合図する。視線を受け、幸田は一礼をして部屋を出た。パタンと小さな音と共に、二人っきりになった。
「慎二には、会わない方がいい」
智論は揺れるカーテンに瞳を細めた。
「会わない方がいいわ。もう二度と」
小鳥が、窓の外で囀った。
黙って出たりしたら、みんな心配するかな?
里奈はチラリと振り返り、だが大きく息を吸う。
ちょっとだけ、ちょっとその辺りを歩いてみるだけだよ。
まさかそんな行動で、美鶴に偶然バッタリ都合良く出会えるとは思っていない。ただ、何かのきっかけにはならないかと、そんな気持ちで外に出た。
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